聚楽第の跡に天秤町と分銅町がある
【幻の絢爛豪華な平城の夢の跡/local news/まちの歴史/京都・西陣】
丸太町通から智恵光院通を上がり、下立売通を通り越した辺りが「分銅町」で、その東にあるのが「天秤町」です。
この2つの町名は、豊臣秀吉が造った「聚落第」が関係していると言われています「聚落第」は、政庁兼邸宅として利用され、二条城の約2倍の大きさがあったと推測されています。。
1587年に贅を尽くして完成した平城は、1595年に居城としていた秀吉の甥・秀次に謀反の嫌疑がかけられ、高野山で切腹させられたことで徹底的に破壊され、堀も埋められ、跡形も無くなってしまいました。そして現在、その存在を感じさせてくれるのが、当地に残されている町名です。
「分銅町」「天秤町」は〈分銅堀〉〈天秤堀〉から、〈天秤丸〉と呼ばれた櫓があった所は「天秤丸町」、「裏門通」と「黒門通」は門の別称が由来だと言われています。
「楽しさを聚(あつめ)る」という名の「聚落第」は、悦びの中で造られ、わずか9年後に哀しみとともに消え去った都の真ん中の幻の城です。
【場所】
京都市上京区天秤町
2019年7月1日RT(734)