祇園の三養軒、木屋町の一養軒
昭和の初期から、日本を代表するコメディアン、役者、編集者、エッセイストとして活躍した古川緑波(ロッパ)。美食家としても知られていた緑波が、京都の洋食について、こんなことを書いています。
色町洋食
古川緑波
祇園の三養軒、木屋町の一養軒など(京都には、何養軒と名乗る洋食屋の如何に多き)の、第一、入ったところの眺めが、他の土地には見られない、建物なり装飾ではあるまいか。
カーテンで、やたらに、しきって、お客同士が顔を合わせないようになっている。だから、何処のテーブルに就いても、たちまちカーテンで、しきって呉れる。
そこへ、「おおきに」の声もろとも、祇園の、或いは先斗町の、芸妓や舞妓が、入って来る。
旦那(とは限らないが、つまりは、お客)が、先程からお待兼で、「よう待ってたよ」てなことになる。
つまりは、これ等の洋食屋は、レストランというよりは、花柳界の、色町の、延長と言ってもいいだろう。
だから、こういう店には、ボーイに、古老の如きオッサンが必ずいて、痒いところへ手の届くようなサービスをして呉れる。
此の旦那がいらしったら、祇園の何番へ電話を掛ければいいとか、あの姐さんが来たら、こういう酒を出せばいいとか、万事心得ていて、トントンと運んで呉れる。だから、チップも、はずまなきゃならない。
然しねえ、木屋町の一養軒あたりでさ、川のせせらぎをききながら、一献やりの、海老のコキールか何か食べながら、ねえ、あの妓の来るのを待ってる気持なんてものは、ちょいと又、寄せ鍋をつつきながら、レコを待ってるのとは違って、馬鹿にハイカラでいい心持のもんだ。
なんてえのは、戦争前のはなしだがね。いいえ、戦後だって、そういう店は、昔の通りやってますよ。やっぱり、カーテンで、しきってさ、「姐ちゃん、おおきに」なんて言ってるさ。
けど、その祇園・先斗町のですな、妓なるものがだ、マイコなるものがだ、何うも近頃のは、昔のようなわけにゃあ行かない。
なんて、小光・万竜の昔は知らず、初子・桃千代なんて舞妓さんのプロマイド買って、胸をときめかした、僕らにしてみれば、何うも妥協出来ないものがあるんだなあ。
いえ、ごめんなさい。近頃は、京都へ行ったって、祇園だ先斗町だって、遊び廻ったことはないんだ、高いからね。だから、いまのことは、知らないってことにしときましょうよ。
昔は安かったからね。遊べもしたんでさ。
(「色町洋食」から一部抜粋)