有楽、祇園に残る戦国風流人の心
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四条通から花見小路通を下がって、青柳小路を東に入って、東松竹通を上がると「有樂稲荷大明神」があります。家屋に挟まれて立つ朱の鳥居が目印です。
小さな境内にある灯籠には「有楽町町内会」の文字が書かれています。さてこの「有楽町」、地図で探してもありません。このエリアの町名は、「祇園町南側」。地図に無い町があり、町内会が存在するのが、さすが京都、その奥深さに感動します。
町名の由来は、織田信長の弟、織田長益です。兄信長に仕え、本能寺の変では二条城から脱出。変後は、甥の信雄に仕え、後に豊臣秀吉に仕えます。この頃、剃髪し有楽斎如庵と号します。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後は姪の淀殿を補佐しますが大阪夏の陣を前に豊臣家を去ります。
有楽斎は晩年、花見小路四条下ルに京都建仁寺の塔頭「正伝院」を再興し、茶室「如庵」(国宝)を作り、茶道に専念します。戦国の時代を駆け抜け、風流人として生きた、75年の波瀾の生涯でした。
【関連情報】
建仁寺塔頭 正伝永源院
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2018年12月13日RT(1,090)