極意を得るには
「自分の影を先に斬り倒す」。やや物騒な話だが、若き日の剣豪・宮本武蔵が太刀を腰に差して池に飛びこむ修行の場面がある。大学生のころ好きな作家でもあった五味康祐の小説「二人の武蔵」にある◆頭から落ちる瞬間に鏡のような水面に自分の顔が映る。武蔵は素早く太刀を抜いて自分の影を斬ろうとする。当然ながら水面に映る武蔵の影も同時に太刀を抜いて本物の武蔵を斬ろうとする◆宮本武蔵の影と本人の二つの太刀は常に水面上で交わる。どちらかの太刀が早く出て相手を斬ることはあり得ない。それを知りつつ、その所作を繰り返した。
作家の宮部みゆきさんは「火車」(新潮文庫)で蛇の脱皮を書いている。「あのね、蛇が脱皮するのはどうしてか知っている?」「一生懸命に、何度も何度も脱皮しているうちに、いつかは足が生えてくるって信じているからなんだってさ」。あり得ない無駄な行為、愚かな行為とあるが、それでもいつの日か蛇から違う動物に変身できると思い描いて繰り返す。
五味さんは後日談で「二人の武蔵」を解説した。水面に映る自分の姿を一瞬でも早く斬れる日が来ると信じていた武蔵ではあるが、「本人は、目的は叶えられずとも“その修行”をとおして、なにがしかの極意を会得していったはず」である◆武蔵ならずとも、極意を極めた人は、少なからず人生の過程で、他人から見ると、「無駄に見える行為」を繰り返してきたはず。「愚かな行為」だと蔑まれても、「初めてやってみて分かることもある」(曹洞宗・道元禅師)。そして途中で諦めないことも重要だ◆23歳から拙文を書き始めて約50年、やっと少しはコラムらしきものを書けるようになってきたかと思うが、「まだ、まだ」と記者時代の先輩が雲の上から笑っている。
(西村敏雄)
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