己の生を愛し慈む心を

 人の生活に最も大事なのは、自分の生を愛し慈むの感情である。生きてるということに対する自覚的な輝かしい感情である。なぜならば、そういう感情からこそ、本当に純な素直な力強い生活心境が生れてくるのだから。
 この自分の生を愛する心を、吾々は忙忽たる人事のうちにあって、往々にして失いがちである。そして第二義的なものに――生の本質にではなくして生の便宜たるものに――ばかり眼を向けがちである。名誉だの名声だの金銭だのというようなものが、更に卑近な方面では、衣食住に関する余贅なものが、吾々の前に立塞がって、吾々の心を惑わし煩わしがちである。勿論それらのものは、生活に必要であり、活動力を刺戟しはする。然しながら、それらのものに囚われる時、それらのものばかりを追い求むる時、人はただ功利に走って、本当の生活の味を味い得なくなる。それらのものが目的となって、生きることが方便となる。
 自分の生を――一生を方便とする、それほど惨めな浅間しいことがあろうか。人にとっては生きることが目的であって、名誉や金銭や名声や衣食住に関する余贅などは、生きるための方便であるべきである。(勿論茲に云う生きるということは、単に生命を持続することばかりでなく、生きるということが必然に内包してる、仕事や働きなどをも含めて云うのである。)そして人を正しく生かすものは、己の生を愛する心である。

豊島与志雄『大自然を讃う』から抜粋

2022年2月11日RT(156)
編集部 春風

編集部 春風

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