豪商と俳人は何を隠し何を残したのか…
【local news/京都・四条烏丸/まちの歴史/釘隠町】
烏丸通から仏光寺通を西に入った辺り、室町通までが「釘隠町」です。町名の由来には、一つの豪商が深く関わっています。
江戸時代のはじめ、豪商・十四屋倉の屋敷がこの辺りに建てられたそうです。贅を尽くした屋敷には、人目につきやすい釘の頭を隠すために「釘隠」の装飾が施してありました。当時、商人の屋敷で「釘隠」が施してあるのは珍しく、またその豪華さが評判を呼び、多くの見物人が押し寄せました。そしていつの間にか十四屋倉の屋敷が建っている辺りを、「釘隠町」と呼ぶようになったそうです。
江戸時代の中頃、この町に一人の老人が移り住みます。日常生活を俳句にし、絵にした与謝蕪村です。蕪村は、最晩年をこの地で過ごしました。
「しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり」辞世の句です。寒中に凛と咲く白梅を想いながら、68歳の生涯を終えました。
【関連情報】
京都市下京区釘隠町
2018年11月9日RT(356)