はだかにて うまれてきたのに なにふそく

 ある老人が毎晩、居酒屋に通ってくる。飲むだけ飲むと、酒代を置かず帰ってしまう。女将さんも酒代を請求したことがない◆不思議に思って客が「どうして勘定を支払わないのか?」と聞くが女将さんは何も言わない。老人がその居酒屋に通って間もないころのことだ。「金がないが、呑ませてくれ」と。女将さんも「ある時払いでいいよ」と◆ある日、老人が帰りしなに、「長いことに世話になった」と、お礼に井戸に薬丸ふた粒投げ入れた。翌日からなんと井戸から酒が湧き出るようになり、その味も評判になり居酒屋が繁盛した◆年月が流れ、あの老人がやってきた。「どうだ、繁盛しているか?」と尋ねた。女将さんは「井戸から湧く酒なので酒粕ができなくて困っているんですよ」と◆嘆息した老人が、帰りしな井戸に近寄った。すると投げ入れていた薬丸が井戸から老人の袋に戻った。それからは水が湧き出る普通の井戸に戻った。

 中国に伝わる奇譚だ。幸福と感じられた事も、それが当たり前になってくると、不満が頭をもたげてくる。「今、この幸せを噛みしめてみよう」。そんなことを考える。京北の夜は寒い。さて今夜は、うぶな孫らを膝に、あの井戸の酒を有難く一合だけ頂こうかと思う。

(西村敏雄)

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2022年3月6日RT(323)
編集部 春風

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