出かける所がなくなったら
2年近くに及ぶコロナ禍、いつも通っている所がお休みになり、出かける機会がほとんどなくなる。そんな経験をされた方は随分多いのではないかと思います。
実は姉もそんな一人でした。特にこの6,7年前より少しずつ心身の不調が見られるようになって、笑わなくなったりして心配でした。でも、1週間に何日かの他の人との交流によってやっと自分を保てていたように思うのです。全く人に会わない一人きりの生活がどんなものだったか、不調に不調が重なって。自分でできない、わからないことが目の前に、それで右往左往していたのかもしれないです。孤独が心身を蝕むんです。誰だって他とのつながりの中でやっと生きているのに。
いつ帰ってきてくれる?
2020年8月初めのことです。1日に何度も姉から電話がかかってきました。
6歳上の姉は高校卒業後、就職して鳥取米子の家を出ましたから、子どもの頃の姉との思い出は余りないです。ただ私が高校生になった時、姉は自分の給料でコートを買ってくれたことが記憶に残っています。私が高校卒業後家を出た後、姉が転勤で家に戻ってきてから両親とずっと一緒に。両親亡き後20年近くひとりで。その間、私は京都から年に1、2回帰るくらいでした。「よく笑い、よく話す」頼もしい姉でした。私が米子に帰ったのは8月24日でした。8月中旬以降、何度姉に電話をしてもつながらない不安を抱え6時間かけて夜に。
姉は何とか生きていてくれました。姉はずっと待っていてくれたんです。「とても寂しい時があった」と本人から聞いたことがあったのに、何故もっと早くにと後悔ばかりしました。
今、足が自由にとはいかないけれど、実家の方の近くの施設にいます。翌日の8月25日に実家の近所の何人も方々が心配して来られ、ひとり暮らしの姉を暖かく見守っていただいていたことがわかり、嬉しかったです。又、鳥取に私の2歳上の兄がいて1か月に1回車で1時間半かけて実家に寄ってくれていました。今は掃除や草取りを。一時、同じ県内だからと施設で姉と面会ができたようです。姉のしんどそうな様子を兄から聞いても、定期的にやり取りしていたら気持ちが楽になります。
長明さんが方丈記で
『ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。~世の中にある人と栖と、またかくのごとし』とは、身近に起こった災厄(大火、竜巻、戦乱、飢饉、大地震、疫病)や長明さん自身の半生を振り返って書いたのです。私自身若い頃ならわからなかったでしょうが、年齢を重ねる中での身近な人の病気、死、体の衰えなどに直面して、長明さんの無常観が痛いほど伝わってきます。これだけの災厄に遭わなくても、です。今、まるごと館に来られている方々の中でそういう気持ちのやり取りができる関係が見え、私はここでも助けられています。
言葉にならない思いが
1年5か月の間姉の声は数回聞けても実際には会えていません。施設から月毎に姉の写真と詳しい様子が。それを見て一喜一憂している私です。
食事がちゃんと取れているとの文章や笑顔の写真見ると嬉しいです。1か月に数回、絵手紙講習会で描いたハガキに言葉を添えて送っています。いつも「元気でいて下さい」と。
姉はいつも家に帰りたいと言います。ごめんねと思いながら、いつも私の中にいろんな気持ちが交錯しています。
元気で生きていてくれればと思っています。
(八幡まるごと館 上谷順子)
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