オモニ(母親)への思い

 「オモニは幸せだったばい」「苦労もしたばってん、よか人に出会えたん・・」。政治学者・姜尚中さんの母親が最期に残した言葉です。オモニは韓国語で母親です。あるきっかけで姜さんとお話しをする機会を得ました◆話題は「母子関係」。戦前、姜さんのお母さんはわずか16歳の時に、同郷の許嫁(いいなずけ)を頼り朝鮮半島から日本へ渡ってきました。初めは日本語も話せずに、読み書きにいたっては生涯出来なかったそうです◆在日韓国人への差別は最悪の状況でした。土方などありとあらゆる仕事をしたオモニが亡くなり5,6年が経った頃(2010年)、姜さんは「母-オモニ」を書きました。母親は生まれた土地へ帰ることを強く望んでいましたが、結局は戻る事なく日本の土になったのです。「オモニが自分自身の酷な運命と『和解』できたのは何故か?」。姜さんの疑問でした◆「文字が読めないばかりに騙されたことも。ですが、たとえ悪か人と会っても、あとは必ずよか人との出会いが待っている」として人と交わることの喜びも知っていたのです。それは故郷に戻っても日本にいても同じだと分りました◆酷い差別を受けたが故か、更に我子への愛情は深まっていったのです。だから、「我々子供らにとって、母親の存在は絶対的なものになったのです」。末子だった私も、5人の男の子を育て上げた母親が92歳で亡くなりましたが、その「母の死」を中々受け入れられませんでした。姜さんも「僕もオモニがこの世からいなくなることを想像するだけでも恐ろしくなりました」と同様に語ってくれました。

 姜さん夫婦に子供ができて「我々や孫に囲まれて、いつも楽しそうに笑っていた」そうです。ですが、「周りから労苦をともにしてきた人々が、一人、また一人消えていく寂しさを耐えていたのではないかと思います」◆オモニが生きた時代は飢餓や貧しさは今では考えられないものでした。が、「(日本人の母親も含めて)母親は皆、『強さ』を持っていました」。それは「自分の命に代えても我子を生かして育て上げるんだ、という母性が強くあったからでしょう」。姜さんの心に残っているオモニの姿です◆姜さんと話を終えたあと、ふと庭で寝そべって彼との話を噛みしめていました。離婚や生活の困窮で我子への悲劇が多くなっている中でも、「母親はあらゆる手間を掛け子供らを育ててくれいるんですね」。姜さんの言葉が私の頭に残ったままです。

(西村 敏雄)

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2021年4月12日RT(306)
編集部 春風

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