八幡まるごと館たより【3回目】
『また、養和のころとか、~二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春、夏日照り、或は秋、大風、洪水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。~』
五大災厄の中の1181年から2年と続いた養和の飢饉を。長明27歳でした。
想像もできないようなひどいことが起こりました
春から夏にかけて極端な少雨で旱魃、日照りで田畑の作物は全て枯れ、かと言えば秋には大風に大雨で大洪水に。米も穀物も全く収穫できない、惨憺たる状態でした。こういう飢饉が二年間続いたそうです。
『~国々の民、或いは地を捨てて、境を出で、或いは家を忘れて、山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はれるれど、さらにそのしるしなし。』
食べ物が全くありませんから、ある者は先祖代々の土地を捨て諸国を放浪し、ある者は家を見捨てて、山の木の実等をあてに山に住んだと言います。様々なお祈りが行われても効果はありませんでした。
地方が頼みの綱
『京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上ぼる物なければ、さのみやは操もつくりあへん。~』
何事にも、物資の供給源はすべて地方からでしたが、送られて来ないために、恥も外聞もなく、家財道具や財物を安く売って米を手に入れようとしますが、かなわないことでした。結局、お金より粟が貴重に。
声ならぬ声を聴く
『乞食、路のほとりに多く憂い悲しむ声、耳に満てり』
そんな時、長明は自分で歩き、乞食が道路のはしに大勢集まって、声さえ出せずに悲しむ、苦しむ姿を自分の眼や耳で受けとめているように見えます。声が聞こえなくなっても悲しむ声が耳の底に満ち溢れてくると。
方丈記が完成したのが1212年、この飢饉は1181年のことです。実は、長明はこの時30年余り前のことを書いているのです。それくらい脳裏に焼き付けられた、心に刻まれた出来事だったのです。
長明さんは教えてくれています。黙して語らない、語れない人の声を受け止める心の耳を持てと。声を出せない人の声を聴く。今のこのコロナ禍の時こそ、この心耳を、と思うのです。切り捨てられ、声を潜めて暮らしている人がいることは容易に想像できますから。
飢饉の背景
飢饉の原因は異常気象という自然的要因だけでなく、当時うち続く源氏と平氏の争乱が常時ある中、田畑は荒れ果てて収穫どころではなかったといいます。民のことより自分が天下をとるということに血眼になっていた権力者たち。1185年には源氏の鎌倉幕府が成立しますが、全てが疲弊していたということです。
今も…
今まで書いてきたことは800年余りも前のことですが、飢饉、飢餓は日本でも世界でも歴史上ずっと続いてきています。また、戦時中日本軍の進撃によって、何百万人もの中国・ベトナム・インドの人たちを餓死させたこともありました。
現在、食料は全世界に均等に分配できる量は十分あるというのに、今も飢餓が。内戦等の争いや農業政策により、一方で有り余る食料と、一方で飢えという、とても不均衡な今の世界の中を、私たち全員が生きているわけです。
そして今、コロナ禍です。過去の幾多の疫病時と同様に、昨年にはコロナ感染者であるからと攻撃の対象に。コロナ最前線で医療の仕事をされている看護師さんの子供には保育園に来ないでくれとか感染後住めなくなって引っ越したとか、等々枚挙にいとまがありません。また、職を失い、毎日の生活に事欠き、自ら命を絶つ人も。これは明らかにコロナ対策の指揮官が誰かわからない状況や無策が引き起こしてきた事柄ではないかと長明さんが生きていたら言うのではないか、ましてやオリンピックをするか、と。これを書いている時熱海の土石流で多くの方が犠牲に。不明な方が一人でも多く、無事でいらっしゃることを。
(八幡まるごと館 上谷順子)
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